2024年2月26日、今年のF1を考えてみる。
フォーミュラワン、それは世界最高峰のモータースポーツだ。
レースは世界各地で開催され、勿論ここ日本でも開催される。
毎年10月頃に開催されていた鈴鹿のコースは世界中のF1ファンを魅了し、またこのコースレイアウトを好むレーシングドライバーも多い。
しかし今年はなぜか4月の第4戦に開催が変更された。
多少の違和感は拭えないが、とにかく2月29日の開催が待ち遠しい。
初戦はバーレーンGPだ。
さて私のF1ファン歴を振り返ってみる。
私の記憶を遡ると、1993年の日本GPが最古である。
当時アイルトン・セナとアラン・プロストがF1界を牽引しているなか、ミハエル・シューマッハやデーモン・ヒルといった新たな才能が開花しようとしていた時代だ。
父親が当時の日本GPを見ているのを、何気なく横目で見ていた。
まだセナもプロストも知らない、でも当時F1アナウンサーの古舘伊知郎の解説に心を引かれていた若き日の時代。
私が本格的にF1GPを視聴し始めたのは、皮肉にも翌年の1994年だ。
この皮肉の意味に勘づいた人は、恐らく古くからのF1ファンなのだろう。
そう、第3戦のサンマリノGPで英雄アイルトン・セナが事故死した。
当時高校生だった私は、セナの偉大さに勘づき始めていた。
事故の翌日、学校のホームルームでもセナが死んだことを先生が話していた。
F1をよく知らなくても、どこかで聞いて知っている名前。
それが私にとってのセナだ。
今でも思い出す。
当時深夜の生中継(だったと思う)を見ていたが、眠くて寝落ちしてしまった。
そして翌日のホームルームでセナの事故死を知った。
・・・なんということだろうか。
どうやら私は当時のスーパーヒーローを好きになれない性格のようだ。
セナの事故後、2年連続でチャンピオンを獲得したのがミハエル・シューマッハ。
当時徒競走で足の速い人へ与えられたあだ名が『シューマッハ』だ。
F1で才能豊かなイメージと、名前の一部である『マッハ』が、足の速い人への贈り物だったようだ。
そのシューマッハを、当時の私は好きになれなかった。
なぜならば、私はシューマッハの陰で、苦労人としてあまりスポットライトが当たらなかったデーモン・ヒルの大ファンだったからだ。
デーモン・ヒル。
彼はいつもスーパーヒーローの影にいた。
アラン・プロストやアイルトン・セナ、そして直接のライバルだったミハエル・シューマッハ。
彼らの2番目的存在、それがデーモン・ヒルだ。
そんな彼の父は、実はF1界で有名なグラハム・ヒル、2度のF1ワールドチャンピオンだ。
しかしグラハムは1975年、自家用ジェット機が墜落し事故死した。
その事故後に窮乏生活となったヒル。
そのヒルが二輪競技から四輪へ転身し、F1へやってきた。
私が思うに、彼は決してヒーロー気質があるわけではない。
どちらかと言えば影のある存在。
レーシングドライバーとしてのスキルは、シューマッハの方が圧倒的に上だろう。
だから1994年と1995年のシュー・ヒル対決では、シューマッハがワールドピンチャンピオンを勝ち取った。
しかしヒルは、F1マシンのセッティングやフィードバック能力に長けていた。
つまり、ヒルが乗っていたマシンは速かったのだ。
実際にヒルが当時所属していたウイリアムズは、『誰が乗っても速い』と言われるほど速いマシンだった。
そして何より、苦労人ヒルが時折見せる笑顔が、当時の私にはものすごく眩しかった。
1996年、デーモン・ヒルはついにF1の頂点に立った。
直接的なライバルは、同じウイリアムズのチームメイトであるジャック・ヴィルヌーブ。
ジャックの父は、F1界でも有名なジル・ヴィルヌーブ。
無冠ではあったが、多くの人々を魅了したフェラーリドライバーだ。
そんな父を持つジャックは、才能溢れんとばかりに初戦でポールポジションを獲得、レース終盤のオイルプレッシャートラブルに見舞われるまでは、ヒルを従えトップを快走していた。
結果的に譲られるようなかたちで勝利を手に入れたヒルではあったが、この時の私のイライラは今でも覚えている。
早く走れなかったヒルではなく、ヒルより速い才能溢れるジャックに対してイライラしていたようだ。
その後ヒルとジャックは接戦していたが、結果的にヒルはついにワールドチャンピオンを獲得した。
ヒルのワールドチャンピオンが決定した当時、私は深夜に絶叫しかなりのご近所迷惑だったことを深く反省している。
喜びの反面、過去2戦ライバルだったシューマッハが当時のベネトンからフェラーリに移籍したばかりでマシンが出来上がっていなかったこと、そのことでライバルから脱落してしまったことを残念にも思っていた。
ヒルはやはり影である。
ワールドチャンピオンを獲得した翌年、当時所属していたチームであるウイリアムズとの契約更新はされずチーム放出、翌年は弱小チームのアロウズへ移籍することになってしまった。
私は当時、このニュースがショックで仕方がなかった。
ワールドチャンピオンがトップから最弱チームへの移籍だ。
BMWエンジン獲得のために有利なフィレンツェンと契約、などと報道されていたが私にとってはどうでもいいことだ。
当時の私は、フランク・ウィリアムズをたいそう憎んだものである。
正直言って、この時点でヒルは終わったと思った。
今まで最弱チームへ移籍して成功を納めたドライバーを私は知らなかったからだ。
しかし影あるところに、光はあった。
1997年の移籍直後は、あわやチャンピオンが予選落ち、なんて場面もあった。
(当時は107パーセントタイムで予選落ちというルールがあった。予選落ちになると、なんと本戦に出場できないという奇抜すぎるものだった。)
しかしその年の第11戦、ハンガリーGP。
最弱チームのアロウズは、予選で3位となった。
アロウズはエンジンがヤマハ、タイヤがブリヂストンというチームである。
そのステアリングを握り3位で本戦スタートするのがヒル。
苦労人ヒルは、実は日本人のファンが多かった。
そしてヤマハエンジンにブリヂストンタイヤである。
ハンガリーはヒルが得意なコースでもある。
私にとって、いや多くの日本人にとって最高の場面が訪れたのである。
自分ごとのように手に汗を握りながらテレビにかじりつく私。
レース開始から最後までのドキドキ感がたまらなかった。
決勝の結果は2位。
レース終盤までトップを快走していた。
ただ残念で仕方なかったのが、最後の最後で油圧計とギアボックストラブルが起きてしまった。
最終周でヴィルヌーブに抜かれ、そのまま2位チェッカー。
トラブルが起こらなければ確実に勝利していた。
しかし私にとっては、このレースが今でも心に残っている。
天才的な才能がなくても、諦めず努力を継続すれば世界をとれる。
たとえトップを手にしても、そこから地に落ちることもある。
地に落ちても目の光を失わなければ、また輝きを取り戻すこともできる。
希望を失わず努力を継続することの大切さ、そんなことを私は学んだ。
その後ヒルは1998年にジョーダンへ移籍したベルギーGP、生涯最後の勝利をおさめた。
しかしその後のカナダGPで、今季限りの引退を表明。
引退レースとなった日本GPで、ヒルのF1は幕を閉じた。
私にとってのF1は、今でも生活の一部でもある。
しかしヒル引退後、私にとってのスーパーヒーローは未だいない。
今は才能溢れるマックス・フェルスタッペンの時代。
ミハエル・シューマッハを思わせるような程の、スーパーチャンピオンになりそうな勢いだ。
しかし私はいつも、その陰となる存在を応援している。
ヒルのような、決して天才ではないが努力家であるような。
あまりスポットライトは浴びていないが、でも目の奥の輝きは誰よりも鋭いような。
不器用だが、どこか周りから愛されるような。
そんなスーパーヒーローを、またもう一度見てみたいものだ。
さて、今年のF1はいかがなものだろうか?
本命はやはりレッドブルとフェルスタッペンの一択か?
メルセデスやフェラーリ、マクラーレンはどこまでレッドブルに近づいているのか?
開幕戦であるガルフ・エア・バーレーンGP、非常に楽しみである。